昭和50年日付不明、杉山家田畑家合同慰霊祭
今日、期せずして田畑(タバタ)のお父さんと、杉山(スギヤマ)のお母さんの式年のお祭りを一緒に合わせて、私が奉仕させていただいて、何か複雑な感じがしよりましたけれども、複雑などころではない。もうそれこそ整然とした、あの感じで、今日のお祭りを頂かせて頂きました。ほんとにあの神様を信じ、御霊様、いわゆる魂の世界を信ずるものでなければでけないお祭りでしたですね。ただ御霊様が喜びなさったろというもんじゃなくて、もうそこんとこをあの神様を信ずる、そこに御霊様、いうなら親先祖を大事にする、やむに止まれん、たとえば心。
たとえば私は一番手前に、えー日田の奥の豊後森というとこの山の奥から参ってくる方がありますが、この頃からもう改式のおかげを頂きたいとお届けがあって、それから初めてここのお母さんの、式年ではございませんけれども、帰幽日、お国がえになられた日を、まー今までは仏教でお茶でも沸かしておったのを、合楽の親先生にお取り次ぎを頂いて、まー簡単なご挨拶を、お祭りということじゃないけれどもして頂きたいというので、親戚、それから御本人達みえて、ここで簡単なお祭りをさせて頂きましたけれど、うーん、本当にその信心でそれを真心で、しかも神様を信じて、これから御霊様もまだ助かることがでけることも信じて、そこのお祭りをするための、心がウキウキするような喜びを真心を表して、その、嫁さんという方が真心のあるという人ですし、信心も大変手厚くする人ですから、もうお母さんのたとえば甘なからな一つを作らせて頂くでも、もう思いをこめて朝からウキウキする気持ちで、いろんな神せんのお供物も、あー色々用意してみえておられました。それをお供えさせて頂きましたら、時に頂いたあのご理解ですけれども、たとえばあの声の良い人がね、お風呂の中でも歌を歌ったたりすると
なんとも言えん声が出る、もう自分で自分の声に聞き取れるゴタる。うん。ありゃもう、あたくしどんでも、その歌のあんまそげん上手じゃなかったけども、時にはとっても良い声が出る時がある。いわゆる自分で自分の声に聞き取れるような、あのー、ようにです、もう自分の心を拝みたいような時、これがたとえばなら、本当の娘やら、本当の息子やらが、親の思い、こりゃ信心が、なかってもです、ほんとに親を思うとか子どもを思うとかいう念は、これはまた格別です。これはやはり肉親というか、血というか、ね、けれどもそんならその田畑(タバタ)さんところのこのお祭りでっちゃいうなら、たとえば、田畑(タバタ)さんのいうならいくえ(イクエ)さんの主人の高橋さんである人が発起して、どうでも一つ合楽でお父さんの式年祭をさせてもらおうじゃないかと、夫婦のものが話し合うという心を言うものは、普通ででけることじゃないです。形の上はできても、その思いというものは。
ね。ならあの秋永(アキナガ)の方の場合でもそうです。そりゃもちろん(?)4:40さんが中心になっての御霊様です。お母さん。けれどもやはりお姉さんの婿である秋永先生夫婦が、あの、いわば(ミツオ)んところよりも、かえって杉山の家の者よりも、秋永の家の者が中心になって、先になってこのお祭りを奉仕したというところにある意味で共通するものがありますね。今日のお祭りは。ね。ですからたとえばあの親が子を思うとか子が親を思うというのは、まー当然と言えば当然。けれどもうんなら赤の他人であるとか、また義理の中であるというのがもう思いを込めて、今のその本田(ホンダ)さんではないですけれども、しゅうと親の、まだ知らないお母さんのお立ち日だというので、しかも初めて親先生のお取り次ぎを頂いて、今日は御霊様がどんなに喜んでいるかしれん。ためにその思いを込めてすることが、お祭りの奉仕の準備などの中にもです、それこそ自分で自分の心が、ありがたーくなる事だと思う。それこそ声の良い人が自分の声に聞き取れるような、私は信心とは結局、自分で自分の心が拝みたいような心の状態をいよいよほんとなものにしていく事なんですから、高橋(タカハシ)さんのお心を思う。秋永先生の心を思うた時にです、ほんとにこれが思いを込めてやれておるというそのことに信心ちゃありがたいもんだなーと、まー家内についてはお勤めでしよると言ったようなものじゃなくて、もうそれこそ一番初めに申しましたように、神を信じ、御霊の世界の、いわば信じることのでける人でなからなければ、そういう意味合いでできない、今日はお祭りを私奉仕させていただいたように思います。
あー御霊様の、おたくの、御霊様の、ことを神様にお願い、御霊様がねどういうふうなことだったかと言うとですね、あのー(タカハシ)さんがもう、真っ白の、あの真っ白ていうか、あのかみですけどね、その見て、でつつんだ見事な、あの花をね、こう1束持ってみえた。そしてこうやってお供えしたとこが、こんな小さい花瓶がね、ありゃこんなとじゃ入りゃせん。もうこれは一輪挿しのことくらいしかでけん。と言いよったら、もうそれこそ見事な青磁のね花瓶に、をそれを取り替えるところを頂いて、その花を見事に全部さされるところを頂きました。これはどういうことかと言うと、今日の御霊様がなら受けものが小さかったのが、今日のお祭りを境に、受け物を大きく取り替えて頂かれたなと言う感じがしました。しかもあの、青磁の壺というのは、ひじょうに清楚なね清々しい感じです。御霊様がいうなら小さい受け物を大きい受け物に、このお祭りを境に、言うなら御霊の位も一段とと言うことを申しますが、そう言うおかげをそう言うふうに表現して頂きましたよね。
あのー杉山(スギヤマ)のお母さんの3年で、ほんとにえー、ミツオさんおかげいただかれて、まーありがたい、ことでしたが、やはりあの仏教できちっとなさっておられるもんですから、どうしても御霊様の方には力が入らん。そりゃやむ負えないこと。けれども、こうしてあのー、姉さん達夫婦の言うならば思いで、こうしてでけたんですから、あのねーまー言うたって分からない(?)けれども、からの(?)を一生懸命拝んでおるところを頂きました。いかに今の仏教でね、どんなに金をかけて、ならお供養するとか法要するとか言ったって、通じるはずも、御霊の喜ぶはずも絶対ないです。ただあの子供達が真心でしてくれとる、そのからの(?)にいわゆる、まーしてくれとるその気持ちが嬉しいことであろうけれどもね、なら例えて言うとそうですけれども、うんなら今日の御霊様のお祭りなんかは、ほんとにお酒の好きな人はお酒を召し上がられ、お魚の好きな人はお魚が召し上がられ、甘いものが好きな人は甘いものが頂かれるというそういう実感ですね。問題は。御霊様がぼた餅あがんなさるわけでもなからな、酒もを飲まんなさるわけでもないけれども、そういう実感がいわゆる神を信じ、御霊の魂の世界を信じておるもののいうならば奉仕によってそういうおかげを受けられたんですけれども、あのー、んー、なんていうですかね、たくさんこう並んでおるところに、あのー、クローズアップということを申しますね、その中心の真ん中、その人だけをこう映すという、杉山(スギヤマ)のお母さんのクローズアップの姿を頂いたんですよ。だから少し慌て気に、あら絶対(?)されると思わなかったわけね。そこだけクローズアップされたもんだから。そしてなら、言うておられること思うておられることがどういうことかと言うと、こーりゃいつこげな風にしてお写真を映されるかわからんから、日頃が大事だなー。日頃どんきちっとしとかないけんなというような感じでしたよ。ね。そしてどういうことかというと、御霊ながらにもね、あのー修行させて頂くことが楽しくなったという意味のことを頂きました。こりゃもう御霊ながらに御霊がおかげいただいていくために、やはり御霊ながらの修行があります。しかもその修行がね、あの御霊ながらに修行させて頂くことが楽しくなったと。またいうなら次の5年の式年はもっと楽しいもっとありがたい思いでお受けになられることがでけるような、こりゃ力を受けとかないけんなというようなふうに、あの私は感じさせて頂きました。今日は、あのー、総合というか、まー合同のことに、期せずしてこうでごぜいましたけれども、それこそ袖擦り合うも多少の縁と申します。不思議なことに高橋さん(タカハシ)がやっぱ一番初めに、金光様にお導き頂いたのも秋永先生です。それが期せずして義理の親達の、その式年がね、あのそれも何かこう、縁があるように思います。袖、とにかく袖擦り合うも多少の縁、今日の御霊様達もそういう縁によって、また何かあのこの賑やかにおかげ頂かれるような感じがいたしましたですね。まー不行き届きなことでした。
録音不良?
という時にお神酒が足らんと頂いたんです。のやーだから後からもう一本づつお供えせないかんと思うですね。お魚があんまり多すぎるけん、お神酒が足らんということはね、まー、ありがたき勿体なきおそれ多きが足らんというふうにも頂きますけれどもね、これはならたとえばあのー、田畑さんや(?)さんのあたりの場合は、ほんとのこつ御霊様にどん、ほんなこてぼた餅を食べござるじゃるじゃろうか、ほんなこてお酒を飲みなさるじゃろうかと、まー思うのも無理ない。そりゃ飲みはしなさらんばってん、と同じような働きがあることだけは間違いないです。ね。だからね、魂の世界でね、あのーあたくしどもがいよいよあのーおかげいただくために、いわゆる現世、今現在、魂の、魂を本気で清めとかなければいけないということは、もう霊祭をするたんべんに私は実感いたします。お互い本気で良い信心させてもろうて、魂を清めることの精進をしとかにゃなりませんですね。